昭和四十八年十一月一日 朝の御理解
X御理解 第六十三節 「一粒万倍といおうが、一人がおかげを受けたので千人も万人           もおかげを受けるようになるから、よい手本になるような信           心をせよ。」
 どんなに良い信心をさせて頂いておるようであっても、又見えても、実際には本当に相すまんお互い信心であります。
 私が今日こうしておかげを頂いて、沢山の人が助かるようになった。合楽教会と言えば、まあいうならば、全国津々浦々、九州に合楽ありというような段々おかげも頂くようになった。
 それでならば、どれだけの信心が出来でおるかと、実にそれは自分自身の信心を思うてみる、又振り返ってみる、成程その時点、時点で一生懸命だったなあとこう思う けれども、その一生懸命であったと思うその信心を、後で振り返ってみると、実に目の荒い相すまぬ、とてもとても良い信心とは言えない。いうなら、皆さんが御覧の通りのこの位の信心に、このようないうなら、大変なおかげを頂いておる。
 私はどういうわけで神様が大した信心も出来んのに、神様おかげを下さってあるかというと、結局は一粒万倍のおかげを下さってあるという事です。
 たった一粒しか信心が出来とらんのだけれども、実際にそれを取り上げてみると、それがやはり千も万もの、粒になっておるという事。ですからかその一粒万倍になるような、いうなら信心をさして頂かなければいけません。
 随分させて頂いとるようだけれども、如何に播いても、播いても実の気がないというなら、それは、しいら信心だといわなければなりません。しいらとは空の籾の事です。そりゃ毎日参りよります、拝みもしよります。御用もさしてもらいよります、というてもそれが一つの、一粒万倍になるような、信心でなからなければいけないという事です。一粒でもよいから、それが本当のものでなければいけないといいう事です そこで私は、なら、私の信心のどこが一粒という事になっただろうか。一粒という事は一粒(つぶ)という意味ですよ。
 昨日の朝のお話を申しますと、天地の親神様の御働きを金光大神のお取次に依って頂けれる、限りなく頂けれる道を教祖様に御伝えになり、又は御依頼になって、難儀な氏子の取次、救済の御用を願われる。
 教祖様は又、それを素直に有難く御受けになられて、それを取次いで下さる事になった。そういうおかげの頂ける道を日々頂いておるのに、いわゆる本当な信心というか、本当のおかげが頂けてないという事は、残念至極だ。
      ※      ※      ※      ※      ※ 天地の御恵みを受け、天地の御育てを頂いて、お互いおかげを頂いて、まずは天地の大恩を悟らしてもらって、その天地の大恩に何とかして報いたいという心が、お道の信心の真髄である。
 神恩報謝の生活というのは、その天地の大恩を悟ったところからしか生まれて来ない。おかげが頂かれない、このことの御恩は一生忘れませんとそういうものとは違う 天地の大恩をわからしてもらい、その天地の御恩恵に対する神恩報謝の心。そこから神様へ報いさせて頂くという、いわゆる神の事、そして人間氏子の事、この神と氏子との、あいよかけよとの働きが出来てくる。。
 神と仲良うする信心、金光教の信心はいうなら、金光教の独壇場というのは、神と仲良うする信心。親の事は子が願い、子の事は親が願う。私共が神様の願いに応える信心をさしてもらう。神様が又、氏子の願いに応えて下さる。そういう信心、金光教の信心のいうなら、根本的なところをわからずに、只、おかげ下さい、おかげ下さいと、親からおねだりをするような信心が、例えば、何十年続いたところでです、それは一粒万倍の本当な種にはならない。
 それは、しいら信心だという事、神の願いを聞かせてもらう。
      ※      ※      ※      ※      ※ 昨夜三十一日ですから、月末御礼の信話会がここで、ほんの一口づつでありますけれども、丁度、昨日三十名の人達が集まっておった。
 皆、一口あて、一ケ月間におかげを受けた、生粋のところう一言、一言丁度一時間かかった。丁度九時から十時までおかげを頂いた。
 本当に皆さんの一言、一言が、生粋のものですからね、本当に有難い。さあ、今日も終わった。又来月もおかげ頂かにゃという、そういう事でした。その中に福岡の秋嘉郎さんが発表しておりました。
 親教会の初代の式年祭が三十日の日にございました。二十九日の日に私が嘉郎さんが朝参りして来ておるその帰りに、呼びとめて、あなたすまんけれども、帰ったら、福岡のまあ、届くところだけで良いから、ここのところの、二十三日の月次祭は私が不在でしたから、発表してなかった。だから福岡の御信者さん達に電話連絡でも良いから、連絡してくれないかというて、私が依頼を致しました。その時に、嘉郎さんが感動したというとります。
 何故かというと、先月十月という月は、大変ないわば月でございました。御本部、いわゆる教祖九十年祭の教会あげての御参拝をさして頂いたり、又は引き続いて、合楽教会の御大祭、もう何かと大変ないわばおかげ月であった。信心月であった。
 その一月間を通してです、神様どうぞお役に立つ信心、使うて頂けれる信心、という事が私は十月のお願いの中心であった。お役に立ちたい、何かお役に立たせて下さい。ところが一月たったけれども、お役らしいお役もおおせつけられないし、御用が出来なかった。
 ところへ、いうなら、三十日ぎりぎりに親先生が福岡の御信者さん方に、さあ、それがその事がもう一人一人に、熱意を込めて祈りに祈り、願いに願って、その事を電話かけたり、行ったりしてお願いをした。
 ところがその反響というか、響き返ってくるのが、いやどうも有難とうございました。それはお参りさせてもらうどころじゃありませんという。成程、福岡の方達がこんど大変多かったですかね。
 もう先生その事が私は今月の一番有難い事でしたと夕べ発表しとりました。それが一生懸命お参りしてこげなおかげ頂きました、ああでしたとお役に立ちたい一念です 金光様の御信心は、それはどういう事かというと、神様のいうなら、合楽教会大発展ということのも、天地の親神様の御心である。願いである。その御用の端口にでも使うて頂きたいという願いである。いわば神の心を知って、それに受けて立つという信心になったわけである。それがもっともっと、いうなら神様の心を動かすというか神様の心に通うというおかげを受けて、いうならば、成程金光様の信心をしよんなさったから、人間も出来なさった、財産も出来なさった、地位も出来なさったというようにです、そういうおかげを頂いて、その手本になるような、いわゆる、手本になるような信心から、手本になるようなおかげを現さにゃいけん。
 ところが、なら、厳密に言うてです、嘉郎さんが昨日発表の、嘉郎さん自身の信心を思うた時に、本当に相すまん、そういう発表してから、立派とは思うていないだろう。私自身こういうまあ、いうならば、こういう大変なおかげを頂くようになったけれどもです、私位の者の信心に神様が、どうしてこういうおかげを下さるようになったかという事を思う時にです、神様、どうぞ私に、それこそ千人も万人も助かるとおっしゃるが、一粒万倍のおかげが受けられるようになるとおっゃるが、信心が出来んけれども、そういう見本にも手本にもなるようなおかげを頂かして下さいと、神様の心をそのまま私が願ったからだと思うです。
 自分の栄光栄華の為じゃなかった。神様がいうならば、御教えは神様の一つの証言である。いうなら一つの約束である。こういう信心すればこういうおかげが受けられるという神様の手形である。それを私共は頂きこなしていない。
 自分の信心を思うてみる時にです、本当に相すまぬ信心だという事に、けれどもこのようなおかげを受けておるという事はです、神様がそういうて下さるような、手本になるようなおかげを頂かして下さい。それは又千人万人助かる事の為に信心は出来んけれども、その手本になるようなおかげ頂かして下さいと願ったからです。
 それが神様の心なんです。たった一つの信心して出来んけれども、いうなら、千も万ものおかげを下さったという事になるのです。
 勿論、それが口で言うだけではなかった。称えるだけではなかった。そこまでなら誰でもそげなふうにいっちょいうならば、おかげ下さるならば、そげなふうにいっちょ、お願いしょう。だれでもそれは人が魂【】ょごたる。手本になるようなおかげを頂きたいのですから,そんなら神様の手本になるような信心するものが手本になるようなおかげを下さいと願うならば、おかげ下さるならば、今日からいっちょ、お願いをしょうというただけじゃいかんです。
 それが本当にです、本当に千人も万人も助かるようなおかげを頂ける為の、手本になるような信心でなければいけないという事なんです。
 そこで私の場合には、その先が違うんです。ね、信心は出来まけん、出来ませんがこれだけは私の一粒の種になっただろうと思う事はです、その代わりです、その手本になるようなおかげを頂かしして下さる、その代わりに神様自分の身を削りいうならば、心を削り、身の限り、心の限りを以てです、神様が求めなさるところの修行は、有難く受けさしてもらいますからというのが、最後についておるという事なのです。 それをここでは成り行きを大事にするというふうに言うわけです。願っても願っても、おかげにならなかった。そこからです、神様がいうならば、私に求められる修行であるならばです、身を以て心を以て、それを受けてまいりますという信心です。
 そういう信心を厭いません。としてですよ、どうぞ一粒万倍のおかげの頂かれるような、人の手本になるような信心を頂きたい。おかげを頂かして下さいと願う。
 願うからには、外には何にも本当の信心は出来ませんけれども、神様が求めて下さるところの修行であるならばです、それこそ身を削り、心を削りして、身の限り、心の限りとそれを受けて受けて、受けぬかせて頂くという修行を厭いませんというのです。私の一粒万倍の元であったと思うんです。
 ですから一粒でさえ、一粒でさえそれなのですから、私はもっともっと偉大なですひとつ、もっともっと偉大な種をです頂きたい。今日は私は十一月の一日に当たってもう、その事ばかりを繰り返し繰り返し願った。たったその位の信心でも、神様はこのようなおかげ下さったんですから、それがもっと偉大な、もっと大きな一粒のおかげを頂かして頂いて、千人も万人もではない、それこそ万人も億万人もがおかげが頂かして頂けるようなです、種を作らせて頂こう。その事を私は今日神様にお願いしました。皆さんもどうぞ一粒万倍のおかげの頂けれるような、只ね、自分の願いをごとばかり並べて、どうぞどうぞとお願いするのではなくて、人の手本になるようなおかげを頂かにこいけません。
 それはです、千人も万人もの者が助かる事の為に、そういう手本のような信心、実際はその信心は出来ませんけれども、神様がこれが願いですから、世の中の難儀な氏子が取次助けられる事を、神様が願いそれを金光大神は願うてござるのですから、その神様の願いをばっちりと受けとめて、千人も万人もが、私一人の信心に依って、助かったり出来たりするような、助かって行くようなおかげを頂かして下さい。
 その代わりにこの位な修行は、それは皆さんの手元のところで決める事。その為にはなら、朝参りでも続けます。こんな修行もいたします。という事になる人があるかもしれません。皆さんのめいめいの信心の程度に依ってです、その朝参りも致しますというような、お日参りも致しますといったような、それがです、神様の願いが成就する事の為に、そういう事になるでしょうが。
 だから神様がおかげを下さる、信心も出来ませんのに、このようなおかげを下さる 私自身が本当に信心も出来ませんのに、このようなおかげ頂いておるのは、そういう私は種を播かせて頂いた、いておったからだとこう思うです。
 それをもっともっと、だから私はこの十一月の月の信心の焦点をです、もっというなら立派というかもっと偉大なというか、もっと大きな深い意味に於いての、信心の種を播かせて頂く。そしていよいよ世の中の多くの人の沢山助かるような。
      ※      ※      ※      ※      ※ 昨日私、お夢を頂いて、その事を夕べの何に話さして頂いた事でしたけれども、昔の椛目の駐車場の一角に電柱を立てておる。見事な大きな電柱、その投光機ですかねパ-ッともう大変明るい。灯りを椛目の御信者さん方、上げておるところを頂いた。 ところがその前の方にあるお店が、原口さんというお店があります。あそこは、余り大きな電球をつけるけんこっちはまばゆうしてこたえんというて、腹かきよんなさる。そしたらこんどは又、後ろの方に広島さんという牛乳屋さんがあります。
 あそこは御親戚ですけどね、原口さんと、その方から、こっちの方があまり明るいけんで、こんどは家の方がかえって暗うなったと文句が出ておるところ。
 まだ合楽の場合は、片一方位のところに光がそれは輝いておる事でありますから、まばゆいというていわれるのであり、又後ろの方が真っ暗ですからね、投光機はこうでしょう。だから後ろの方が、かえって光が後ろにかえって暗く感じるわけです。
 暗くなるわけじゃないけど、だからかえって暗くなったというて文句が出た。
 ですからそのまんべんなしにというかね、太陽のようなですかね、もうそれこそ、四方八方がパ-ッと光輝くような明るいものになっくるところに、誰もが、ああ、おかげでという事になってくるのじゃないか。まだそこのところが足りんのだといったようなお話を夕べさして頂いた事でしたけれども、そういうおかげを頂かしてもらう為には、今のような合楽の種ではいけん。もっともっと大きな、偉大な種でなからねばいけないという事になるわけですよね。
               どうぞ。